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孝公(こうこう、紀元前381年 - 紀元前338年)は、中国戦国時代・秦の第25代公。姓は嬴(えい)、諱は渠梁(きょりょう)。献公師隰の嫡子。即位するや、国中に布告を出して国政の立て直しをはかり、やがて、魏からやってきた商鞅を起用して抜本的な国政の改革()を断行、穆公亡き後の衰退した秦を強力な中央集権国家として生まれ変わらせた。都を櫟陽から咸陽に遷都。対外的にも魏を破るなど、富国強兵に努めた中興の祖。 == 生涯 == === 奇計の士を求む === 秦の孝公の元年(紀元前361年)、黄河及び華山から東には、強国が6つあった。すなわち、斉の威王、楚の、魏の恵王、燕の、韓の、趙のである。その他の十数カ国は、淮水と泗水のあいだの狭い地域に押しこめられていた。 これらの強国のうち、楚と魏は秦と境を接していた。魏は鄭を起点に洛水に沿って長城を築き、北は上郡まで版図を広げていた。また楚は漢中を中心として南は巴・黔中にまで勢力を広げていた。 周王室が衰えてからというもの、諸侯は力によって対立し、競って領土を拡大したのである。秦ははるか西方の僻地にある雍州(現鳳翔県南東)に都をおいたため、中原の諸侯から夷狄同様にみなされ、会盟に招かれることもなかった。 孝公は仁政に努めた。孤児や寡婦を救済し、戦士を優遇し、また論功行賞を公平にするとともに国中に布告を出した。 こうして、秦の外征が開始され、東は陝城を包囲し、西は戎のカン獂(犭+原)王を斬るという成果をあげた。 そのころ、衛の公孫鞅(以後、衛鞅)は、孝公の布告を伝え聞いて秦に入国した。彼は孝公の寵臣景監を通じて、孝公に目通りを願い出た。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「孝公 (秦)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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